すっごかった……。映画の新しいあり方を見せてくれたような気がする。その新しいあり方の名前がつまり「ワイルドスクリーンバロック」ということなんだね。
『ロンド・ロンド・ロンド』を観て改めて思ったんだけど、この物語ってアニメシリーズで完璧に綺麗に終わっているんだよね。そこから次の映画=舞台をどうやって作るか? となったときに、アニメシリーズで取りこぼした断片を拾い集めて、なおかつ大団円でさらに大きなカタルシスを観客であるわたしたち=キリンに見せようとしたんだろうな。その努力が「ワイルドスクリーンバロック」という手法に結実した……んじゃないかな? ぜんぜん違ったら申し訳ないけど……。
この劇場版の全体の見所は「メタ的視点」で、前半の見所は「モブ」、後半はアニメシリーズ最大の取りこぼしである「運命の舞台」、これが「ワイルドスクリーンバロック」であり「レヴュースタァライト」そのものである、と。そうだよね。うんうん。だってアニメシリーズってオーディションで終わっていたもんね。実際の舞台を演じるところまではいっていなかった。だけど、この映画では「私たちはもう舞台の上」なんだね。よかったね……泣。
それぞれの舞台で決め台詞があるのがいいよね。皆殺しのレヴューでは「なんだか強いお酒を飲んだみたい」。怨みのレヴューでは「ずるい!ずるい!ずるい!」。競演のレヴューでは「大っ嫌いだったの、神楽ひかり、あなたが」。狩りのレヴューでは「殺してみせろよ、大場なな!」。魂のレヴューでは「お前の魂をよこせ!」「英雄には試練を 聖者には誘惑を 私にはあんたを!」。
この台詞って、あくまで舞台上の台詞ってことになっているのがいい。本人が実際にどう感じているかというより、演出として映える、そして観客が見たいシーンと聞きたい台詞を言わせているんだろうなあって感じる。
そう考えると、この映画って多重構造になっているのかな? まず華恋たち女子高校生/舞台少女のリアルがあって、その上に舞台上での虚構があって、そのさらに上に映画を製作した人間のいる世界がある。そしてそれを見ているわたしたち観客がいる。
たしかに、舞台ってそういうものだよね。現実と虚構が分かち難く絡み合ってお互いに影響しあっている。その響き合いをわたしたち観客は楽しむ。舞台を楽しむのと同時に舞台俳優を推す、みたいな。推しが出ている舞台と推しの舞台俳優を観るのは同じようでいて違うけど重なり合っている。
そしてその舞台を作り上げる人がいる。本来は舞台裏にいて気配を消している人の声が、この映画では随所に聞こえる。「怖いなあー!」とか「もっと本物の台詞を!」とか「わがままでよくばりな観客が望む新しい舞台」とか。
そしてこの映画、わたしたち観客も役を与えられている。キリンのいうように、舞台少女たちを舞台にあがらせる燃料としての熱。華恋とひかりがこちら=スクリーンの向こう側に目を向けて、わたしたちの姿を見ることでわたしたちにも役割があり、舞台の一部であることに気づく。
「ワイルドスクリーンバロック」の英語、エルがかっこでくくってあったじゃないですか。あれなんだろうと思って調べてみたら、もともとは「ワイドスクリーン・バロック」というものがあるんですね。
Wikipediaでワイドスクリーン・バロックの説明読んでて「これってアルフレッド・ベスタ―じゃない?」と思ったらまじでアルフレッド・ベスタ―が例に挙げられてて興奮しました。『ゴーレム100』が現時点での衝撃的小説1位に君臨しているのでちょっと嬉しい。
そしてたしかに、この映画は「ワイドスクリーン・バロック」のようでいてそうじゃない、「ワイルドスクリーンバロック」だわと感じました。舞台がわたしたち観客のところまで浸食している。まさに野生に解き放たれた映画。
細かいところでいえば。アニメシリーズでわたしが気になっていたところって「親はどうしてるんだろう」だったので、しょっぱなから親が出てきて「おお、やっぱ制作陣も気になっていたのかな」と思いました笑。
だってひかりが行方不明になって、親じゃなく華恋が警察に行ってたじゃないですか。「親の存在は抹消してるんだな、まあアニメあるあるだよね」と納得しようとしていたんですが、やっぱりちょっと気になってた。映画では親もきちんと描かれているなあと感じたのでよかった。
あと、モブ! 映画前半、モブがちゃんと描かれていてよかった。ストーリーの本筋に関係のないことは削るのが普通だからアニメでモブが省かれていても全然よかったんだけど、映画では驚くほどモブにスポットライトがあたっていてよかった。
一番かわいいモブは、ひかりと華恋がお弁当の取り合いをしている横で、自分のを取られないように隠している女の子です。異論は認めます。
この映画で気づいたけど、ばななちゃんが写真をたくさん撮るのって、一瞬のきらめきを永遠に残しておきたいという気持ちが強いからなんだろうね。だから何度もひとつの舞台を繰り返していた。ばななちゃん……いえ、ばなな様……。もう様づけしてしまうよ、映画のばななちゃんは……。かっこよかったねえ……。
まひるちゃんもすっごいよかった。わたしは主人公のお嫁さん的ポジションの子が好きなんだ!『ストライクウィッチーズ』のリーネちゃんみたいな。リーネちゃんやまひるちゃんみたいな良い子で完璧なお嫁さんが、主人公が別の準主人公と強い絆を結ぶことで嫉妬したり許したり応援したりすることでしか得られない栄養、確実にある。
純那ちゃんもね、エンドロールで大学進学じゃなくてNYに留学していたじゃないですか。準備をやめて、主役への道を歩くと決めたんだね。
準備をやめて行動するといえば。ばななちゃんが「みんなしゃべりすぎ」って言ってたじゃないですか。「えっ、しゃべっちゃだめなの……?」って戸惑っていたんだけど、電車内の広告でその意味に気づいた。真矢が電車の広告と同じポーズをしていて、その広告には「ACT」ってでっかく書いてある。つまりまず行動しろってことなんだね。準備とか見学とかぬるいことしてないで、本番やっちゃおうぜ、ってことだったんだね。
あと、劇中で一番泣いたのが真矢様とクロちゃんのレヴュー……。美しい……すべてが美しすぎて……号泣。実はわたしアニメシリーズでは真矢クロだったんだけど、クロ真矢もいいなと思った……。映画で解釈が変わったよね。エンドロールでクロちゃんの傍らに黄色い鳥がいて「フランスにいっても真矢様のことを想っているんだ……」と知ってまた泣いた。永遠のライバルだもんね……。『ガラスの仮面』のマヤと亜弓のように……。
はあ……。すごく満足……。観客が見たいものをありったけ見せてくれて、存分に打ちのめしてくれました。レヴュースタァライト最高!!
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