2024/06/29

映画『クレヨンしんちゃん 謎メキ! 花の天カス学園』感想

クレヨンしんちゃんの映画を初めて観たんだけど、いい!! めっちゃよかった。

このブログに度々出てくる(というかその人しか出てこない)某さんにまたまた教えてもらって観ました。

某さんとね、先日お会いしましてね……。眩しいくらいの美人で目ん玉飛び出ました。お会いしているあいだ夢見心地でしたよ。本当に楽しくて……。ここ数年で一番楽しかった。わたしの灰色の人生に光り輝く天使が舞い降りた……ってかんじ。

この映画は某さんと会った翌日にさっそく観ました。やはり某さんのオススメは外れがない。某さんのオススメのチョイスがわたしの未開拓の分野なのですごく助かります。

クレヨンしんちゃん、今まで観なかったのがもったいないなあ。なんかわたしは逆張り精神があるのか、ヒットしている日本アニメ映画を観てこなかったんですよね……。ドラえもんしかりコナンしかり……。

なぜ観なかったんだろう。そんなのおもしろいに決まってるのに……。やはり人にオススメしてもらうのって大切ですね。

そしてこの映画、すごくおもしろく感じたんだけど、某さんのチョイスが上手いんだと思う。わたしの好みをわかってらっしゃって、わたしが好きそうなのを選んでくださってるというのもあるのかな。

学園ものでミステリー仕立てで青春を感じられて、観たあとの爽快感が気持ちいい。マラソンのシーンで感動して泣きました……。熱すぎる展開。いい。

主役の五人全員がそれぞれ違った輝きで光ってて、脇役も個々に個性的に光ってて、すべての輝きがラストに向けて噛み合ってゴールするの、すごいですよね……。

お尻が出てくるたびに「これ性的じゃない!? 大丈夫!?」となってましたがわたしの心が汚れてるだけでした。心の汚れたオトナって嫌だわあ……。

考えてみると、観たあとに素直にまっすぐに感動してすっきりした気持ちになる映画を観たの久しぶりかもしれない。こんなに身近に素晴らしいエンタメがあったのに、わたしはそれを見逃してたんだな。すごい盲点だった。教えてくれた某さんに感謝だ……。

映画を観たあとにその映画の感想を話したくなる人がいるのっていいことだ。こんないいことがわたしの人生に起こるなんてね……。しみじみ。

他のクレヨンしんちゃんの映画も観る!

2024/06/24

映画『ザリガニの鳴くところ』感想

おもしろかった。ロケ地をあそこにして、主役をデイジー・エドガー=ジョーンズにした時点である程度の勝ちが確定したと思う。

でも、ぶっちゃけ一流の映画ではないかなと感じた。だけど二流なりに一流に逼迫しているし、二流だからこそ、個人的な好みの領域に深く食い込んでくる。心の秘密の領域にしっくりと収まる映画じゃないかな。こういう雰囲気、たまにはいいね。すごくよかった。

そうだな、とても個人的な映画だと感じた。たぶん原作小説の雰囲気をうまく汲み取っているんだと思う。読んでいないからわからないけど。原作小説は、どちらかというとロマンス小説にあたるのかな? 普段ロマンス小説を読まないのでよく知らないんだけど……。

事前情報一切なしで観たから最初はどういう映画かわからなかった。綺麗な風景にそぐわない殺人の話からはじまって、どうなるのかと見守ってたら『きみに読む物語』っぽい雰囲気でひとりの女性の人生と恋愛の丁寧な描写がはじまって「おお、そっちか、いいじゃん」と引き込まれていった。

不思議なんだけど、牢のなかでカイアと弁護士のおじさんが話しているシーンで「これは二流だな……」って感じてしまったんだよね。なぜそう思ったんだろう? 俳優の演技は魅力的だったし、映像もきれいだった。照明とか撮り方の問題かな……。

二流に感じてしまった一因として思うのは、この映画のターゲットが明確に決まっていて、そのターゲットの好みに的確にフィットさせているから、もあるかなあ……。対象がピンポイントに狭くて、より広くたくさんの人に刺さるように作られていない。だからこそ、自分がターゲットだったらめちゃくちゃ刺さる。

先にも書いたとおり、おそらくターゲットは『ロマンス小説が好きな女性』だと思う。だけど、殺人の裁判に沿って話が進んでいくからターゲット層の存在を強く感じなくて、ターゲットじゃなくても受け入れやすいね。

判決が言い渡されるとき、まじでドキドキして手を組んで祈ってたよ……。無罪になってよかったね! となってカイアの家でテイトとキスして……いやいやそこまででいいよ! ベッドシーンいる? となったんだけど、そりゃまあね、ロマンス小説ならいるでしょうね。うん。

そのあとの結婚生活とカイアの死までのシーン、これって蛇足じゃない? と思ってたら! まさか最後の最後にあんなどんでん返しがあるとは……。これには感動した。

裁判の最終弁論で弁護士が不可能なこととして描写した事件当日のカイアの行動が、実は実際にカイアがとった行動だったということ……だよね?

わからないのが、弁護士がテイトと父親が船の横で和解の抱擁?しているのを見るシーン……。あれの意味がわからない……。

あと、帽子のこともわからない。チェイスについてた帽子の繊維、あれはどうしてついたの? そして何故それがカイアの家で見つかったの? カイアは別の町に行ってたじゃん。わざわざ帽子を取りに家に行った? テイトに罪を被せようとしたのならわかるんだけど、そうでもないみたいだし。あ、変装するためにあの帽子を持っていっていた? そうかもしれないね。

途中まで、カイアはテイトをかばっているんだと思ってたけど、ちがったね。ミスリードにまんまと騙されました。

あとから思い返してみると、カイアは身の潔白を主張していないんだよな……。あからさまにカイアが怪しいのは無実の証拠だと思っていたんだけど、逆だったという……。やっぱおもしろいなあ。ロマンス要素だけじゃなくて、こういうどんでん返しもあるからこの作品はいいね。

数週間映画を観ていなくて久しぶりに観た映画だったけど、すっごくちょうどよかった。この映画の美しい湿地のシーン、ずっと覚えているだろうな。『きみに読む物語』の白鳥の湖のシーンみたいに……。いい映画でした。

2024/06/16

趣味のこと

最近、大好きな某さんのおかげですこぶる調子がいい。調子がいいと趣味がはかどる。というわけで、一週間くらいせっせと絵や漫画を描いていた。そして絵が順調だと、すべてが波にのってくる。そういうわけで停滞していた小説の方も手をつけたくなって、一週間くらい推敲にかかりきりになっていた。

推敲をはじめて一週間目、100万字過ぎたところなんだけど、100万字超えるとさすがに集中が切れた。あと63万字あるんだけど……。ストーリー的に佳境に入ってるから、密度も難度も高くて、集中が切れた状態で読むのはきつい。

推敲作業していて思ったけれど、やっぱりわたしは絵ではなく小説の人間なんだなあ。小説なら一週間ぶっ続けで朝から晩までやれるけど、絵ではこうはいかないもんな……。

いま書いてる小説、人生を賭して書いてるつもりだったけど、今ははやく終わらせて次の物語を書きたい。さすがに10年も同じキャラクターに付き合っていると、他の物語のキャラクターも見てみたくなる。

なにより長い。長すぎる。読み返すのも一苦労。普通の本だと10万字くらいが平均で、長くて30万字くらいだと思うんだけど、まだ完結してないのに160万って。わたししか読まないからいいけど、ちょっと長いよ。

そして登場人物も多いよ……。ちゃんと名前と役割があるキャラクターだけで98人いる。主要キャラだけでも18人だし。こういう点では絵が描けてよかったかも。絵を描けば大体の雰囲気が一瞬で掴めるし。

はあ……。しかもこの物語、「序章」なんだよな……。この物語からはじまって、あと九つ物語があって、本当の完結があるから……。この物語が一番大きくて、あとは小さくなっていく構成だからいいけど……。ちなみに物語の分量は小さくはなるけど、前の物語を内包していくから構造的には入れ子構造になっている。

物語の分量はだんだん小さくなるけど前の物語を内包するから内容的には大きくなるって面白いな。つまりミクロ視点で物語を書くと分量が膨大になるけど、マクロ視点で書くと分量が収縮するんだ。ミクロコスモスとマクロコスモスみたいな……。

そんなことより、あと63万字残った推敲のための集中力をどう取り返すかだ。あわよくば続きを書ければと思っているけど、どうだろう。書けるかなあ。まったく未知の領域だから……。普通の本でもこんなに長い本あまり読んだことないからね。

一応ざっと目を通してはいるんだけど、じっくり読んでいないんだよね……。どんな文章書いたか覚えているし何回も読んでいるから、正直新鮮味がなくてつまらないんだ……。でも伏線を拾って展開に繋げていかないといけないから読まないと新しく書けない。

わたしが自分で書かないとわたしが読みたい物語が読めないって、けっこう面白い状態だな笑。漫画も同じだなあ。小説書けなさそうなら漫画を進めるか……。でもなあ。一回着手したら最後までやってしまいたい。

それに、次はいつ気が向くかわからないから、やる気があるときに進めておきたい。せっかく100万字読み終わったんだから。次に最初から通しで読むのはいつになることやら。たぶん数年後とかになりそう。

小説をバリバリ書いてるときは漢字をひらいたりとじたりするのがめんどくさかったけど、時間を気にせずのんびりと推敲するのは楽しかったな。

基本的に漢字はひらくのが好きだけど、読みやすいのはとじるほうかもしれない。途中で実験的に表記ゆれさせてるから、最後には統一しないと……。漢字の開閉って一生の悩みかもしれない。脳のリソース使いすぎる。もったいないよね。

細かいところにかかずらってないではやく次の物語を書きたい……。予定通りにいくかな。いや、次こそは予定通りにやってみせる。なにこれ前フリかな笑。タイピングの練習として書き始めた物語を10年書き続けて160万字書いても終わってない人間に、予定を守れるのだろうか。何も守れないよ、そんな人間は。

一応物語全体が完成したら以下のようになる予定。

ファンタジーかと思ったらロー・ファンタジーで、そうかと思えばハイ・ファンタジーで同時にサイバーパンクで、かと思ったら学園もので、それが終わってぜんぜん違う物語がはじまったと思ったら続いてて、どうやらバーチャル・リアリティだったらしくて、それどころかシミュレーテッド・リアリティで、突然現代ものになったかと思えば、最終章は1ページでおわる。

予定通りにいきますように……笑。完成に数十年かかりそうだな。まあ一番楽しい暇つぶしなので、生きている限り続けていきたい。最後の2章は漫画で描くかもしれないから、絵も漫画も上手になっておきたいな。

いま書いてる物語はHL、BL、GLが入り乱れる売春殺人暴力ありだけどセックス描写は一切なしのハートフルなセカイ系物語だけど、次の物語はどうなるかな。

いま書いてるのが一番混沌としてるだろうから、他の物語はもっとシンプルで一途な物語になってほしい。いまは足し算をして物語を作っているから、次は引き算で物語を作りたいね。

それにしても、わたしの物語ってエロがないんだよな。もうちょっとエロがあったら公共の福祉のために(笑)公開したかもしれないけど。エロがあれば需要あっただろうけど、ないからね……。ただただわたしが楽しいだけという……。わたし一人だけが読むための物語って思うとけっこう贅沢だな。

小説書くのって簡単なときはすごく簡単なのに、難しいときはとことん難しいから難儀だよね。まあ、登場人物数十人がいろんな思惑を抱いていっせいに動くのをコントロールして取捨選択して伏線回収して物語としてまとめて感動的に大団円に導くの、難しいのは当たり前か……。

あああ……。物語内で四日間の出来事を書けば終わるんだ。あとはエピローグでその後の歴史をちょろっと書けば次の物語にいけるんだ。次にいきたい、なんとしても……!!

お、ちょっと、なんか、次の物語が動く気配が心の奥で……。これはすごい。死んだかと思っていたけど、まだ生きてたんだ。生き物だからね、物語って……笑。はやく本格的に蘇生したいね。

こうして現状を書きだすのも気分転換になったみたいだな。

よし、書こう。まずはいま書いているのを終わらせる。やる気でてきた。わたしにはできる。しかも、上手にできる。がんばれわたし。次の物語のために!

2024/06/08

映画『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』感想

アニメシリーズと『ロンド・ロンド・ロンド』を観てから視聴しました。

すっごかった……。映画の新しいあり方を見せてくれたような気がする。その新しいあり方の名前がつまり「ワイルドスクリーンバロック」ということなんだね。

『ロンド・ロンド・ロンド』を観て改めて思ったんだけど、この物語ってアニメシリーズで完璧に綺麗に終わっているんだよね。そこから次の映画=舞台をどうやって作るか? となったときに、アニメシリーズで取りこぼした断片を拾い集めて、なおかつ大団円でさらに大きなカタルシスを観客であるわたしたち=キリンに見せようとしたんだろうな。その努力が「ワイルドスクリーンバロック」という手法に結実した……んじゃないかな? ぜんぜん違ったら申し訳ないけど……。

この劇場版の全体の見所は「メタ的視点」で、前半の見所は「モブ」、後半はアニメシリーズ最大の取りこぼしである「運命の舞台」、これが「ワイルドスクリーンバロック」であり「レヴュースタァライト」そのものである、と。そうだよね。うんうん。だってアニメシリーズってオーディションで終わっていたもんね。実際の舞台を演じるところまではいっていなかった。だけど、この映画では「私たちはもう舞台の上」なんだね。よかったね……泣。

それぞれの舞台で決め台詞があるのがいいよね。皆殺しのレヴューでは「なんだか強いお酒を飲んだみたい」。怨みのレヴューでは「ずるい!ずるい!ずるい!」。競演のレヴューでは「大っ嫌いだったの、神楽ひかり、あなたが」。狩りのレヴューでは「殺してみせろよ、大場なな!」。魂のレヴューでは「お前の魂をよこせ!」「英雄には試練を 聖者には誘惑を 私にはあんたを!」。

この台詞って、あくまで舞台上の台詞ってことになっているのがいい。本人が実際にどう感じているかというより、演出として映える、そして観客が見たいシーンと聞きたい台詞を言わせているんだろうなあって感じる。

そう考えると、この映画って多重構造になっているのかな? まず華恋たち女子高校生/舞台少女のリアルがあって、その上に舞台上での虚構があって、そのさらに上に映画を製作した人間のいる世界がある。そしてそれを見ているわたしたち観客がいる。

たしかに、舞台ってそういうものだよね。現実と虚構が分かち難く絡み合ってお互いに影響しあっている。その響き合いをわたしたち観客は楽しむ。舞台を楽しむのと同時に舞台俳優を推す、みたいな。推しが出ている舞台と推しの舞台俳優を観るのは同じようでいて違うけど重なり合っている。

そしてその舞台を作り上げる人がいる。本来は舞台裏にいて気配を消している人の声が、この映画では随所に聞こえる。「怖いなあー!」とか「もっと本物の台詞を!」とか「わがままでよくばりな観客が望む新しい舞台」とか。

そしてこの映画、わたしたち観客も役を与えられている。キリンのいうように、舞台少女たちを舞台にあがらせる燃料としての熱。華恋とひかりがこちら=スクリーンの向こう側に目を向けて、わたしたちの姿を見ることでわたしたちにも役割があり、舞台の一部であることに気づく。

「ワイルドスクリーンバロック」の英語、エルがかっこでくくってあったじゃないですか。あれなんだろうと思って調べてみたら、もともとは「ワイドスクリーン・バロック」というものがあるんですね。

Wikipediaでワイドスクリーン・バロックの説明読んでて「これってアルフレッド・ベスタ―じゃない?」と思ったらまじでアルフレッド・ベスタ―が例に挙げられてて興奮しました。『ゴーレム100』が現時点での衝撃的小説1位に君臨しているのでちょっと嬉しい。

そしてたしかに、この映画は「ワイドスクリーン・バロック」のようでいてそうじゃない、「ワイルドスクリーンバロック」だわと感じました。舞台がわたしたち観客のところまで浸食している。まさに野生に解き放たれた映画。

細かいところでいえば。アニメシリーズでわたしが気になっていたところって「親はどうしてるんだろう」だったので、しょっぱなから親が出てきて「おお、やっぱ制作陣も気になっていたのかな」と思いました笑。

だってひかりが行方不明になって、親じゃなく華恋が警察に行ってたじゃないですか。「親の存在は抹消してるんだな、まあアニメあるあるだよね」と納得しようとしていたんですが、やっぱりちょっと気になってた。映画では親もきちんと描かれているなあと感じたのでよかった。

あと、モブ! 映画前半、モブがちゃんと描かれていてよかった。ストーリーの本筋に関係のないことは削るのが普通だからアニメでモブが省かれていても全然よかったんだけど、映画では驚くほどモブにスポットライトがあたっていてよかった。

一番かわいいモブは、ひかりと華恋がお弁当の取り合いをしている横で、自分のを取られないように隠している女の子です。異論は認めます。

この映画で気づいたけど、ばななちゃんが写真をたくさん撮るのって、一瞬のきらめきを永遠に残しておきたいという気持ちが強いからなんだろうね。だから何度もひとつの舞台を繰り返していた。ばななちゃん……いえ、ばなな様……。もう様づけしてしまうよ、映画のばななちゃんは……。かっこよかったねえ……。

まひるちゃんもすっごいよかった。わたしは主人公のお嫁さん的ポジションの子が好きなんだ!『ストライクウィッチーズ』のリーネちゃんみたいな。リーネちゃんやまひるちゃんみたいな良い子で完璧なお嫁さんが、主人公が別の準主人公と強い絆を結ぶことで嫉妬したり許したり応援したりすることでしか得られない栄養、確実にある。

純那ちゃんもね、エンドロールで大学進学じゃなくてNYに留学していたじゃないですか。準備をやめて、主役への道を歩くと決めたんだね。

準備をやめて行動するといえば。ばななちゃんが「みんなしゃべりすぎ」って言ってたじゃないですか。「えっ、しゃべっちゃだめなの……?」って戸惑っていたんだけど、電車内の広告でその意味に気づいた。真矢が電車の広告と同じポーズをしていて、その広告には「ACT」ってでっかく書いてある。つまりまず行動しろってことなんだね。準備とか見学とかぬるいことしてないで、本番やっちゃおうぜ、ってことだったんだね。

あと、劇中で一番泣いたのが真矢様とクロちゃんのレヴュー……。美しい……すべてが美しすぎて……号泣。実はわたしアニメシリーズでは真矢クロだったんだけど、クロ真矢もいいなと思った……。映画で解釈が変わったよね。エンドロールでクロちゃんの傍らに黄色い鳥がいて「フランスにいっても真矢様のことを想っているんだ……」と知ってまた泣いた。永遠のライバルだもんね……。『ガラスの仮面』のマヤと亜弓のように……。

はあ……。すごく満足……。観客が見たいものをありったけ見せてくれて、存分に打ちのめしてくれました。レヴュースタァライト最高!!

2024/06/06

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』感想

すごいものを読んでしまった……。なんだろう、この名伏し難い気持ち。感情の波が静かに、だけど圧倒的に押し寄せてきて、押し流されるような揺蕩うような、激しいのに優しい気持ちになる。

小説は自分の心のなかの入ったことのない部屋を見つけてくれる。その部屋はずっとわたしのなかにあったのに知らない部屋で、だけど懐かしい。

こういう気持ちにさせてくれる小説は本当に少ない。わたしはその数少ない小説のひとつに今日出会ったんだ。

ずっと読もうとは思っていたけど、この本は若いときに読まなくてよかった。今この時期に読むべき本だった。

最初はこの小説のすごさがわからなかったんだよな。「すごく有名な小説なのに、派手なことは起こらないし目新しいこともないな?」と思っていた。拍子抜けしていたんだけど、とりあえず読み進めていった。

じわじわと、キャシーたちとまったく同じような経緯で、わたしは彼女たちが臓器の提供者であると知っていった。

以前から知っていたのに、よくわかっていなくて、理解が追いついていなかっただけで、本当は全部知っていたような気がするけど、実はよくわかっていない。この複雑な理解度を、自然に読者に体験させる。

あまりの技巧に、わたしはそのすごさがわかっていなかった。天才は難しいことをいとも簡単にやってのけるから、それが難しいことだと見ているものにはわからない。こういうことを村上春樹も言っていたような気がする。

彼女たちはクローンにまつわる問題の渦中で保護され、大人が決めた手順で事実を受け入れ、抵抗なく提供者になっていく。その過程は穏やかで葛藤もない。

本来であれば受け入れ難いことのはずなのに、生徒たちは自分たちの常識として提供の事実を違和感なく受け止めている。ヘールシャムの生徒は人間の普遍的な意識を持ちながら、同時に特殊なクローン人間としての意識も備えている。普遍と特殊が違和感なく同居しているんだ。

キャシーたちが提供を当たり前のこととして受け入れているあいだ、わたし自身も提供を当たり前のこととして受け入れていた。キャシーたちの心情に深くシンクロしていた証だ。

そう、彼女たちはクローン人間でありながら、わたしたちとまったく同じ感情を持ち、人と関係を持ち生きている。考え、話し、学び、作り、愛す。

キャシーの視点でキャシーの人生を追ってきたわたしたちにはそれがよくわかる。けれど、キャシーたちを取り巻く環境を丸ごと知っているエミリ先生やマダムから見たら、それは衝撃的なことだったんだろう。

それって食肉用の家畜がわたしたちと同じ魂を持ち、同じ意識や感情を持っていると知ることと同じだと思う。自分と同じように考え感じる家畜が殺されることを知っていながら育てるのって、どれほど恐ろしくて辛いことだろう。

ジュディ・ブリッジウォーターのnever let me goを聞きながら踊るキャシーを見て涙を流したマダムの恐怖や苦しみを想像すると、胸が塞がれたように重くなる。

必死でクローン人間の処遇を改善しようとしてきたマダムだからこそ、その罪の意識は深かっただろうな。自分がしてきたことはなんだったのかと何度も何度も自分に問うただろう。

マダムたちがしてきたことは、本当になんだったんだろうね……。でも、うん、キャシーやトミーを見ていると、それも意味のないことではなかったと思える。

こう考えてみると、突飛な設定ではあるんだよな。臓器提供用のクローン人間の話だから。だけど読んでいるあいだは、キャシーとルースのアンビバレントな友情とか、結ばれるはずなのに結ばれないキャシーとトミーの微妙な距離感とか、そういう人間関係の機微が心に迫ってくるんだよね……。

あと、ヘールシャム時代の記憶。その記憶があざやかで、大人になってもその頃のことを語り続ける生徒たちの気持ちが痛いほどわかって切ない。

コテージに行ってからの、ティーンエイジャーにありがちな気の遣いあいとか仲違いとかもみずみずしくて青々しくてこれも大切な記憶になっている。

本当に痛々しくて胸が苦しくなったのは、本当に愛しあっている者同士は提供が猶予になるという噂を信じて、展示館のことを推理して、その推測をもとに一所懸命作品を作り続け、それを見てもらおうとマダムのところに持っていったトミーとキャシーの純粋さ……。

そんなことあるはずがないと読んでいるわたしにはわかる。ということは、二人もわかっていたはず。なのに一縷の望みにかけて、すべての生徒たちの願いといっしょに、二人はマダムに会いに行った。

淡々と提供を受け入れているように見える生徒たちも、心の奥では怯えていたんだ。そしてなんとか運命を変えたいと思って、そんな荒唐無稽な噂にも縋りつかずにはいられなかったんだ。

あ、そうか。淡々と受け入れることができたのは、ヘールシャムの生徒だけだったのかもしれない。

他の施設の生徒たちはひどい扱いを受けていた。介護人が必要なのは、怯える提供者たちを宥めるためだ。

そっか、マダムやエミリ先生の働きは、決して無駄じゃなかったんだ。だってルースもトミーも穏やかに使命を終えた。きっとキャシーも穏やかに使命を終えるだろう。

子どもに不都合なことを隠す親のように、保護官は生徒から事実を隠されていた。わたしもトミーと同じようにルース先生が正しいと思った。

だけど、もし子どもの時にすべてを知らされていたら、幸せな子ども時代は送れなかっただろう。

マダムやエミリ先生が生徒たちのために必死でやってきた働きは、少なくともヘールシャムの生徒たちの人生を幾分か幸福にしたのではないかと思う。

幾重にも重なりあった層を持つ人間の心。風に揺れてその時々で様相を変え、ある層は朽ち、ある層はいつまでも色褪せない。層は別の人間の層と触れ合い、様々な色を織りなす。時に引き裂き、時に繕い、時に融けあって、最後には静かに消えていく。

言葉にできない愛。時を経て変わり、変わらない愛。それを丁寧に紡ぐ物語だった。

ジェーン・オースティン『いつか晴れた日に』感想

やっと読み終わったー……。時間かかったなあ。 ジェーン・オースティンの作品は『 高慢と偏見 』と『 エマ 』しか読んでなくて、その二つがとてもおもしろかったから『 いつか晴れた日に 』を読んだんだけど。 なんというか、先述の二作品が作家として成熟した時期に書かれたものなんだろうな...