そっか……。こういう終わり方をするんだ。最後に真実が示されてどんでん返しするのかと思いきや、現実と同じ終わり方なんだ。いろんな状況証拠から推測するしかない。真実はサンドラにしかわからない。
サンドラが夫を殺したのかどうか、観客が判断するんだ。裁判で示された証拠をもとに自分が納得できるものを選択する。作中でマージとダニエルが話していたように、判断できない二つの事柄がある場合、どちらを選ぶか心を決めなければならない。
なのでこの映画は観客自身の判断に基づいて、その内容を変えるんだ。観客がサンドラが夫を殺したと考えるなら有罪を危うく免れて無罪になった映画だという見方をするし、サンドラの無罪を信じるなら正義が正しく執行された映画になるだろう。
わたしはどうかな……。サンドラが夫を殺したか? わたしは殺していないと思う。弁護側の血痕の専門家の話に説得力があったから。だけど心のもう一方では、サンドラが夫を殺したと思っている。だってその方が映画としておもしろいから。
不思議な映画だな。なんかちょっとシュレーディンガーの猫の話を連想する。アナロジーとして成立しているかわからないけど。箱を開けない限り、猫が生きている状態と死んでいる状態が同時に存在している。
サンドラの心がわからない限り、夫を殺した状態と殺していない状態が同時に存在して……いる。よね? 裁判で示された客観的事実と状況証拠が必ずしも真実とは限らないから。
ふむ。おもしろい。そうだよね……。現実っていつもこうだよね。外から判断するしかないし、それを決めるのは人の心だ。
あと、この映画に深みを与えている要素として挙げられるのが、サンドラがトリリンガルであることと、小説家であることだよね。サンドラはドイツ語とフランス語と英語が話せる。そして、現実に起こったことを題材に小説を書くフィクション作家である。
裁判中、サンドラは最初はフランス語で話していたけど途中から英語になって、通訳が挟まり裁判は進行した。ここで言葉のやり取りが曖昧になってしまった。そしてまた、彼女の小説が証拠として持ち出されたことでフィクションというフィルターがかかってしまった。
そうか。この映画の事件って、事実を覆い隠すいろいろな要素がヴェールのように重なっているんだ。言語と小説だけでなく、息子の視覚障害もヴェールになっているし、夫が録音していた音声も、小説家志望の夫の創作の資料だったから真実への決定打にはならなかった。
あと、個人的に一番おもしろかったのは口論の内容。あれってさ……夫とサンドラの立場、一般的なステレオタイプだと男女逆だよね。
一方は障害を持つ子どものために時間を割き家庭のために自己犠牲的になり感情的になって相手を責める。もう一方は落ち着いて理路整然と話し自分の仕事はしっかりこなし相手も好きなようにやればいいと突き放す。これって、ステレオタイプだと前者が女性で後者が男性じゃない?
サンドラは冷徹な仕事人間、夫はパートタイムで働き家庭のために尽くして自分の人生を奪われたように感じている。一般的な男女の役割が逆になっている。ここにも事実を覆い隠すヴェールがある。
結局、サンドラは夫を殺したのかな……。殺してないのかな……。このふたつの事実が同時に存在しているのって、最初は気持ち悪かったけど、いまやクセになってる。
そして、サンドラと弁護士の関係も気になる……。あれっきりだったのか、それとも進展はあるのか……。
考えることが尽きないですね。いい映画でした。
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