オカルトもよかったけれど、ラブもよかった。どちらかというとラブの方が好みかもしれない。
よしもとばななの描く恋は、死ぬほど切実な恋なのに、どこか空気の抜ける穴があってそこを風が吹いてるようなかんじがいい。
不倫や別れや不幸な生い立ちの男との恋を描いているから暗い話になりそうなものなのに、どこか薄明るくて風通しがいいから息苦しくならないんだよな。
あとがきでよしもとばななも大恋愛をしたと書いてあったので、よしもとばななの恋愛ってどんなものなんだろうと想像してみたり。
彼女の描く小説のような恋なのかな……。そうだとしたら楽しそうだし苦しそう。
ラブを描いた作品とはいっても、どこかオカルトチックになるのはよしもとばなならしさなんだろうか。
オカルトチックといっても、予知夢だったり予感だったり、そういうことだけれど。
とくに「ハネムーン」には宗教絡みのおどろおどろしい描写があり、そのおぞましさに背筋が冷えた。
けれどそういう残酷さにすらどこか温かみを感じるのは、よしもとばななの世界の見方がそうであるからなんだろうか。
これをオカルトとくくってしまうとちょっと野暮かな?
わたしは小説の気に入った一節をノートに書き留めているんだけれど、この本にも書き抜きたいところが見つかった。
「白河夜船」の一節で、不倫相手といっしょにいるときに「夜の果て」を見ることがある、という箇所。
ふたりでいることの孤独が美しく描かれていて好き。
ふたりでいると幸せなのに、そこに必ず悲しみが含まれていて、悲しみがあるからこそ愛が光る。
そういう感覚をわたしは知っていると思う。
オーストラリアで一年間だけの恋をしたことがあって、その思い出はわたしの唯一の美しい恋の思い出として残っている。
恋した相手は60歳のおじいさんだったので、なおさら別れの予感が色濃かった。
わたしが日本に帰るからという距離だけの別れじゃなくて、彼がわたしよりも早く死ぬだろうという死の予感が常にある恋だった。
彼が一度冗談でよぼよぼのおじいさんの真似をして、それがおかしくて笑い転げたんだけれど、次第に涙が出てきて、彼が悲しそうに慰めてくれたのを思い出す。
よぼよぼの彼を見て、彼が死んでしまうことが現実として迫ってきて、涙がでたんだと思う。
わたしは勉強熱心じゃなかったので英語に不自由だったのだけれど、彼とはなぜか通じあうことができた。
オーストラリアの浜辺に寝転び、二人で深く冷たい海を泳ぎ、陽のさんさんとあたる庭で笑いあった。
あまりにも似た者同士だったわたしたちは、期限付きの恋だからこそ安心して相手を受け入れることができた。
わたしが日本人だから、彼がオージーだからこそ、あんなに気負わずにいられたんだと思う。
今でも数年に一度彼からメールがくるけれど、一度も返したことはない。
あのときあの場所でしか、わたしは彼と恋ができなかった。
死を近くに感じる恋は後にも先にもそのときだけだろうな。
よしもとばななの小説は、生活のすぐそばに、恋のすぐ隣に死がある。
この小説は、わたしにもそういう恋の経験があったことを思い出させてくれた。
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