ある写真を見て、ふと疑問に思ったことがあります。
その写真は新宿の交差点で「キリストは人を罪から解放する」という看板を掲げた人を撮ったものでした。
「キリストは人を罪から解放する」。
あまりよく考えたことなかったけど、もしかして、人類ってすでに罪から解放されてない?
わたしがおぼろげながら覚えている新約聖書の内容はこんなかんじ。
イエスは人類の罪を背負って十字架上で死んだ。そして3日後に復活した。弟子たちに聖霊が降り、イエス=キリストの復活を伝えた。40日後にイエス=キリストは昇天し、神の座についた。
神の子であるイエスが死ぬことで、人類の罪が贖われた……。そういうことでしたよね? 間違っていたら教えてください。
それなら、「罪を解放する」と謳って宗教を信仰する意味とはなんでしょう。
あ、そうか。罪を許されたのは原罪だけで、そのほか生活する上で犯した罪は許されないということかな? だから規律を作りそれを守り、教会に通って信仰を新たにするのだろうか。
ふむ。いや、ちがう。
人類の罪は償われていない。だからまだキリスト教が必要なのだ。
ちょっとここからの話は原理主義的になります。あしからず。
人々がキリスト教を信仰する理由を乱暴にまとめて「神の国に入るため」と仮定します。
「神の国」とはなにもアポカリプスのあと人類が裁かれてから向かう場所だというわけではありません。「神の国」はわたしたちのあいだにある。その国に入るためにキリスト的生活をする。
これが人々がキリスト教を信仰する理由だと思うのですが、キリスト教のみなさん、どうでしょう? 合っていますか?
そしてわたしが考える「神の国」に入るとは、原罪のない状態になるということなのですが、どうでしょうか。
では原罪のない状態とはなにか?
まず原罪とは、蛇にそそのかされたエバが「善悪の知識の木」から実をとって食べ、それをアダムにも与えて神を裏切ったことです。
「善悪の知識の木」の実を食べたことで、人間は理性を持ち知る者となった。その点では神と同じになったわけです。
そして神は、食べると永遠に生きられる「命の木」までとって人間が完全に神と同じになることを危惧して、人間をエデンの園から追放しました。
神とは善悪を知る者であり永遠の命を生きる者。そして人間は善悪を知る者でありやがて死ぬ存在である。
それでは、エデンの園で幸福に暮らしていたエバとアダムが罪を犯さなかったらどのような存在になっていったのでしょう。
善悪を知らず自分が命あるものであることも知らぬ、幸福で満たされた生物だったのでしょう。この状態を望むか望まないか。それが、キリスト教を信仰するかしないかの分かれ目だと思うのですが、どうでしょう、的外れかな。
個人的な意見を言わせてもらうと、創世記は人類の罪の物語ではなく、選択の物語ではないかとわたしは考えます。
人間が世界から何を選択したのか。自然から何を選び取ったのか。
わたしたちは「善悪の知識の木」の実をとり、「命の木」の実はとらなかった。
知恵を得て、死すべき存在であることを選んだのです。
父である神は悲しんだでしょう。自分が作り出した可愛い人間が、自分で知恵を選択し死んでしまうことを選んだのですから。しかし選ばせたのは自分です。そして人間がそれを選んだからには変えることはできない。
父である神は怒りと悲しみにまかせて人間をエデンの園から追放しましたが、ことあるごとに人間を助け時に罰し、自分のところへ帰ってくるよう促します。
神はとうとう一人息子まで遣わして人間に神のもとへ戻ってくるように求めました。
わたしたちはいつでも選択できるのです。「神の国」に戻るか、このままでいるか。
それは選択の問題であり、良し悪しの問題ではない。人それぞれが選ぶべきものです。
こう考えると、なんだかおもしろいですね。
そしてクリスマス・イブにこんなことを考えているから、わたしはひとりぼっちなのでしょうね笑
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