わたしはゲームをやったことがないのでただ聞くだけなのですが、きっとお話している方はつまらないだろうなあと申し訳なくなります。
だって共感ができないですからね。「あそこおもしろかったよね」とか「ここ感動したよね」とか言ってくれる相手の方が話しがいがあるでしょうに……。
わたしは親がおかしな人だったので、子どもにゲームをさせないことを誇りに思っているような節がありました。
新興宗教にはまっていてお金をすべて吸い上げられていたので、お金がなくてゲームが買えなかったという理由もあるでしょう。
みんながゲームをしているあいだ、わたしは本を読んでいました。本は無料ですからね。たぶん図書室の本をほとんど読んだと思います。
低学年のころに本をたくさん読んだとして表彰もされました。100年くらい続いている小学校だったんですが、図書の貸し出し冊数が歴代一位だったらしいです。よく覚えてないですが……。
わたしが表彰されてから、毎年本を一番読んだ児童が表彰されるようになりました。みんなはその賞をもらうために図書室に殺到し、読みもしない本を借りて返してを繰り返していました。
子ども心に引いたのを覚えています。みんな必死になって何がしたいんだろうと不思議でした。
それから図書室で本を借りることに冷めてしまい(目ぼしいものはあらかた読みつくしたのもあり)町の図書館で本を借りるようになりました。
でも、みんなが必死になって本を借りていた気持ちがわかる気がします。
そのころのわたしは、特別支援学級に行くのが妥当なんじゃないかというくらい無口で異質で知性というものが感じられない動物のような女の子でした。
親がお風呂に入らせてくれなかったのでいつも不潔でした。会話も満足にできない、何も考えずぼーっとしているチビの女の子でした。
そんな頭の悪そうな女の子が全校生徒の前で表彰された。あんな子にできるのだから、自分にもできるだろう。表彰を狙っていた児童たちは、多かれ少なかれそう思ったのだと思います。
今の話からなんとなくわかるように、わたしはいろいろ虐待を受けていたので普通の家の子とはどこか違いました。(命に関わるような虐待はありませんでしたのでご安心を)
でも、今でも思います。あのころのわたしにゲームがあれば……と。わたし以外にゲームを持っていない子はいませんでした。
ゲームさえあれば、わたしも他の子どもたちに溶け込めたかもしれない。そこから大切なものを学べたかもしれない。友だちもできたかもしれない。
けれど、結果としてわたしにゲームは与えられなかった。そしてできあがったのがわたしです。
本を読み漁りその冊数を誇りにしてこんなブログをシコシコ書き、映画を観て批評家じみたことをして悦に入り、家族と断絶状態、まともな仕事をせず、子どもも残さずに死んでいく女ができあがったのです。
両親の前から消えたいと願っている子どもを作りたければ、思う存分虐待してゲームを禁止すればいいと思います。
すみません、ちょっと心の傷がうずいて言葉が暴れていますね。あまり幸せな子ども時代ではなかったんです。大目に見ていただけるとうれしいです。
まあそういうことで、ゲームに対する恨みといいますか憧れといいますか、アンビバレントな感情があるんです。
今からやればいいじゃんと思うでしょうが、あまり気乗りがしないんですよね。やってみようとは思うんですよ。思うんですけど、孤独にやるのもどうかと思うし、誰かとやるのもどうかと思うし。うーん。
でも、読書や映画よりゲームが面白いなら、ぜひぜひやってみたい気持ちはあります。世界中の人がやっているんですから、絶対におもしろいはずなんですよ。
それに、趣味のことでいろんなことを話してみたい……。ゲームならそれができますよね。
本を読んでいる人ってほとんど会ったことありません。それが悲しい。わたしもたまにはあの作家がどうだとかこの作品がこうだとか言い合いたい。
読書は孤独にやるものなので仕方がないことではあるでしょうが……。それにしても少ない。でも映画はけっこう観ている人がいるので、それは救いですね。
まあ、読書仲間がいない孤独はこのブログで紛らわせます。
もしこのブログを読んでいる人がいて、子どものゲームを禁止しようと考えているなら、よく考えてから決めた方がいいです。ひねくれて孤独な親嫌いの人間ができあがるかもしれませんよ。
今日はクリスマスです。欲しがっていたゲームをプレゼントで貰った子が世界中にいるでしょう。
子どものころ、もしわたしにゲームを与えられていたならどんな人間になっていただろう……。そんなことに思いを馳せながらひとりでチキンでも食べたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿