わたしは他人が書いた映画の感想は積極的に読みにいくことはしないのですが、『エブエブ』は少し気になってちらりと読みました。
アカデミー賞を何部門受賞したとかもそんなに興味はないのですが、批評家がどう評価しているのか気になって少し調べました。
この映画って『スイス・アーミー・マン』の監督の作品だったんですね! びっくり。あの映画もけっこうおもしろかったもんなあ。
調べたとはいっても検索上位にあがってくるものを少し読んだだけですが、酷評している人がいて信じられなかったと同時に、すこし納得しました。
わたしは『エブエブ』について書いた最初の記事で「村上春樹の小説はドーナツだと常々思っていたのだけれど、この映画はベーグルなんだな」と書きました。
この言葉が、この作品を絶賛する人と酷評する人が分かれる理由を説明していると思います。
たとえば村上春樹の小説って、全世界で評価されていますよね。わたしも一番好きな作家です。これまで生きている人間のなかで村上春樹がいちばん好きです。
けれど、あの小説をつまらないとかよくわからないとかエッチな小説だと思っている人が一定数います。
それというのも、作品が持つ力ゆえさまざまな人に拡散されたからだと思います。彼の作品を求めていない人にまで。
彼の作品を求めている人にとっては、彼の小説は唯一無二なのです。
彼の小説にはたくさんの不思議な要素がでてきます。TVピープルややみくろや羊男や綿谷昇などですね。そして不倫やセックスの描写もでてきます。
村上作品は意味不明とか不道徳だとか評価する人は、表面だけ読んでいるのです。
文章に書かれているいろいろな要素は周縁部にあたるのです。畢竟、作品の中核を成すのは「無」です。
そう、ドーナツです。村上春樹の作品の中心には穴があり、その無の空間には、読む者の心が映し出される。
だから、薄っぺらい人はその「無」に何も映し出されず「つまらない」といい、エッチなことが気がかりな人はエッチなことが映し出されて「エッチだ」というのです。
そもそも、村上春樹作品でなされる性行為はただのセックスではなく「儀式」に近いものです。異界と通じるために、人はそこをくぐり抜けなければならないことがある。
話が逸れました。
なにはともあれ、村上春樹の書く物語はわたしたちの物語でもあるんです。だから世界中の人が魅了されるのです。
混沌から本質を見出すことができる人は、村上作品に自分の人生の苦悩や希望が克明に描かれているように感じます。
彼らは自分のカオスな人生のなかに真実を探しています。深い苦悩があり、淡い希望を抱いている人々です。
村上作品への評価は自分に返ってくるのです。そしてそれは『エブエブ』にも言えます。
『エブエブ』を酷評している人の感想を読んでいて感じたのは、語彙が乏しいということと、アカデミー賞だから観たという人が多いということでした。
わたしの場合、良い作品に対しては言葉が少なくなり、悪い作品に対しては饒舌になります。良い作品は何も付け加えることができないからであり、悪い作品は論理的にどこが悪いのか指摘できるからです。
傘を手のひらの上に立たせたとき、傘が完全に立っている状態が一通りなのに比べて、傘の倒れ方には幾通りもありますよね。それと同じです。
なので、悪い作品ならきちんと理由が説明できるはずなのです。なのに評価が低い人は短い言葉で「意味がわからない」だの「下品」だの「寝た」だの言っています。
『エブエブ』を求めていない人たちにまで届いているのです。だから絶賛と酷評に分かれるのだと思います。
では、絶賛している人はどういう人たちか? それは、映画を真剣に観ている人です。そして混沌の中から本質を見出すことができる人です。
その証拠に、高評価レビューはきちんとした文章になっており知識が豊富です。過去作品からのオマージュがわかり、作品の本質を見抜いています。
ベーグルの中心に多彩で豊かなものが映し出される人。そういう人たちが『エブエブ』を高く評価しているのです。
奇抜な組み合わせ、目まぐるしい場面転換、派手なアクション、下品なアダルトグッズ。目が眩むようなカオスを見せられても、彼らはその向こうに隠された真実を感じ取ります。
言葉にならないことを書いたのが村上春樹。映像に映し出せないものを表現したのが『エブエブ』。
それぞれの中心には何もありません。そこに広がるのは「無」であり、そこに浮かぶのは自分自身です。
あなたは『エブエブ』というベーグルの中心に何を見出しますか?
そこに浮かんだもの、それが、あなたという人間です。
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