わたしは以前まで好きな人は100%全肯定する人間だったんだけど、この歳になると落ち着いてきて、どんなに好きな人でも苦手な部分があると思えるようになった。
all or nothingな思考は危険で魅力的で抗いがたいけれど、ちょっとずつバランスとれてきたような気がする。
そんなわけで、わたしは森博嗣が大好きなんだけれど、この本はそんなに好きではない、と認められるようになった。
森博嗣の小説は崇拝しているけれど、森博嗣のエッセイや新書に関してはそこまでのめり込めないなあ……。
いやあ、今までは全部の本を神格化して崇めていたんですけどね……。それはそれ、これはこれ、と考えられるようになったのかな。
この本が苦手だとバッチリ自覚した箇所が明確にある。
100個めの呟き「最近、ようやく大人になれたかもしれない」の最後の数行で、評価がガクンと下がった。
まあこの過剰な反応は自分の成育歴とか歪んだ信念とかその他諸々に起因するんだと思います。個人的な歴史の積み重ねのなかで築いた偏見によるものなので、理不尽な評価だとは思います。
ひっかかったのは「そういえば、僕には子供がいる。」から始まる数行。奥様が子供の面倒を見て自分は遊んでいた、そのときに奥様は大人になったのではないかという内容。
そりゃあね、森博嗣も遊んでいたわけではないと思いますよ。ちゃんと仕事して小説書いて億万長者になったわけですから。
それになんといっても天才ですから、偉大な事業を成し遂げることに時間と力を使ってほしいとも思う。
冷静に考えるとそうなんだけど、反射的にわたしは奥様に感情移入してしまった。奥様は大人にならざるをえなかった。それは否応なく押しつけられたからで、旦那様の尻ぬぐいをさせられてるってことじゃないかと思ったから。
父親に放置された子どもの気持ちも想像してしまう。もちろん人は自由に生きられるし合理的に思考して自分のために行動していいと思う。自分の人生をどう生きようがその人の勝手。
だけど、その勝手に生きる人のそばで、自分の気持ちを押し殺して理不尽を耐えてやるべきことをやりたくなくてもやる人がいるんじゃないだろうか。
どんなに正論を言われても、頭でそれを納得しても、ないがしろにされた気持ちはなかったことにはできないような気がする。
もちろんぜんぶ想像に過ぎないし、森博嗣を糾弾するつもりはない。というか、それでよかったと思う。
だって森博嗣の作品は多ければ多いほどわたしは嬉しいから。子育てや家事に時間を費やしていて作品を書く時間がありません、なんて言われたら複雑な気持ちになる。
むしろもしわたしが森博嗣の奥様だったら、ぜんぶなんでもやってあげると思う。家のことはいいから小説書いてわたしに読ませてって言うと思う。家事は誰でもできるけど、森博嗣の小説は森博嗣にしか書けないから。
だから森博嗣が家族をないがしろにしているように感じてしまったのは条件反射みたいなものなんだよなあ。よく考えるとそんなに悪いことでもないのかもしれない。奥様や子どもが納得しているなら外野の意見なんてどうでもいいし。
いろいろ考えられるようになったのはいいことだな。以前だったら「森博嗣は天才なんだからすべて正しい!」と思考停止して賞賛していただろうから。
もちろん彼は天才だし、それは免罪符になると思う。森博嗣のしたことは正しいとも思う。だけどそれを100%受け入れられるかどうか、自分の頭で少しは考えられるようになった。
まあグダグダ言ってますが、結局は個人の好みなんですよね。自分がそれを好きか嫌いか、大真面目に考えてるだけ。
なにはともあれ、この本に関しては、わたしは正論だけ言われてもそこまで面白味を感じられなかった。正論って一行で済むんですよ。
正論だけで生きられない人間の性をつらつら書いたものが小説だとしたら、わたしは小説が好ましいと思う。個人的にね。
なら読むなって話ですが、森博嗣の小説は好きなので気になるじゃないですか……。これからも好みじゃなくても読み続けます。苦手な部分もひっくるめて好きなので。
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