双極性障害と診断されてから一年も経ってない……のかな。だからまだ自覚というものが薄い。だけど、意識してみると波が確かにあるなあと感じる。
だけどさ、人間なら誰しも気分の浮き沈みがあるじゃないですか。高くなったら反動で低くなる、みたいな。バランスというのかホメオスタシスというのかわかりませんが、そういうものが。
そう思って生きていきたので、自分の気分の波が脳の病気でした、と言われてすぐに受け入れられるものでもないんだよなあ。家系的にはばっちりそういう因子があるので、納得はするのですが。
そもそも本当に病気なんだろうか? そうなのかなあ。薬も効いているような効いていないような……。
だけど思い当たる節はあるんだよな。気分が最高に乗っているときは、スピリチュアルにハマっていたこともあるし。友人が主催するそういうセミナーに行ったりね……。今思うと信じられない。本当に別人になってしまう感覚。
あと、ときどき敬虔な気分になって宗教について勉強し始める時期がある。その時期は「躁」なんだろうか、「鬱」なんだろうか。なんにしろ特殊な気分になっている。
今は確実に「躁」の時期なんだけど、ここ数日「鬱」のときの気分が折々に忍び込んできていて、ああ、光の季節が終わってしまうんだ……また闇の季節がはじまるんだな、としみじみした気持ち。
すこし寂しいけど、正直ほっとしている。「鬱」の方が「躁」よりずっと長い期間続くので慣れているし、どちらかというとこちらの方が本来の自分に近いと思う。
「鬱」のときの気分って言葉で言い表せないんだけど、興味がより高次で空疎なものに向かうんだよな。「空疎な」と言ったら聞こえが悪いな、「形而上学的な」と言えばいいか。
最近ふと、河合隼雄の『ユング心理学と仏教』を再読し始め、岩波文庫の『完訳アンデルセン童話集(一)』の続きを購入している。これは……兆候、だよね。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を買おうとしているし。
今回の「鬱」はどうなるかなあ。ちゃんと人と関われるんだろうか?
心配なのが、最近はじめた就労先の人に明るい人だと思われてるっぽいんだよな。障害者雇用だから理解はあるのかもしれないけど。「鬱」に入ってから明るい人格を演じるとすぐ限界が来てすべて終わらせちゃうから気をつけないと。
「躁」のときに決定したことって「鬱」のときにめちゃくちゃ負担になるんだよな。特に過渡期の今は気分がまだらになっていて「躁」のときのやり方でやると思うように動けなくて躓いてしまう。
なにはともあれ、ちょっと楽しみだな。うふふ。鬱のときは鬱のときで楽しいんだよ。
鬱ってわりとずっと気分が落ち込んでいるし楽しい気分になることなんてほとんどないけど、じーっと閉じこもっているときにしか見れない世界もあるんだよな。
酒浸りになったり、映画をアホほど観たり、難しい本を読んだり。それをひとりでずーっとしている。鬱の最中は間違ってもそんなこと思えないけど、後から考えるといい思い出なんだよなあ。
またあの世界に戻れるというなら戻りたい。けど、今年は難しいかもなあ。就労があるし……。なんか最近いろんなサポートがはじまって、家に人がたくさんくるんだよな……。
とりあえず、この記事を残しておいて「鬱」の時期が来たら読み返そう。そして「躁だからそんな楽観的なことが書けるんだよこの野郎……」と自分に怒りを感じるのもおもしろいかも。
はあ、今回の「躁」も楽しかった。次の「鬱」はどうなるかな。またいつものように楽しく(?)乗り切りたいな。
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